
基本CG2枚目からのスタート・・・テンションは低め😥😣
表題のとおりなのです。。。現在2枚目のCGを進めているところですが、GW明けのテンションということで、気合値は低め・・・、ローテンションでせこせこ、しこしこやっていこうということでそろそろと絵に向かっています。
スケジュールも作っていますが、ダメですね、、、スケジュールに自分をあてはめようとしてしまう・・・。どうもそういうところがぼくにはあるようです。だからどっちかというとスケジュールがあるとぶち破りたくなる、というなんともバランスブレーカー的なところが自分にはあってですね・・・。
なのでスケジュールをあげるのは、あくまでも「目安」ということを提示するのみであって、実際は読書したり、ブログ書いたりゲーム実況見たりしながら、よろめきながら進んでいく・・・。そういうのがあっているようです。
どうも絵はセックスシーンの激しいところを描きたい、というところがありテンションを上げていく必要があるのですが、佳境に入るとそういうのの連続・・・というところがあり、正直テンション爆上げ~とかやっていくのにちょっと抵抗が・・・という感覚。加えて作画レベル的にも目指している絵と自分の作画レベルの差異にけっこうよろめくというか、つまづくところもあり、、、。
まだ届いてないな、網タイツの質感とかまだまだだな・・・というのがわかってくる・・・。それもまあそこそこ描けるようにはなってきたんですよ。実際ね。でも描ける、これで完成だ!と思うと、「え?ほんとにそれでいいの」まだまだやな・・・、という感情がわいてくる。
読者とすれば「作品ごとに成長してるじゃん・・・なにを鬱屈としてるんだよ、さっさと作品数を増やして認知を上げろ」という方もいるかも知れないよね。そうなんですよ、一作一作成長はしているし、作画レベルは伸びてる。描けるもの増えてるし、学びも積極的にやってる。作品数も年4作ぐらいのペースでやれてるよ・・・というところで客観的に見ると成長期に入っている・・・。そういう感じもするのですが、ダメなところにどうしてもフォーカスがあたるということがあります。
あとはテンションの高さが作画に求められるので、そこをアジャストする、気持ち面で。。。というところで抵抗があるという感じですかね。あとはスキル面での「まだまだ感」ですか。でも描けてきた感もあるので、あまり自己卑下とか過剰な自己責任論に陥らずに、メンタルのバランスをとって描いていきたいですね・・・。
読書は人文系(哲学・心理学・仏教)中心
で、作画詰まってくると、読書とブログが楽しくて仕方ない!いろんな本読んでます。その代わりにいらないのはメルカリで処分しまくってますが。
竹◯青◯とか昔は読んでましたけど、あれは現象学という体をとった宗教でしたね・・・。ほとんど。で、最近はそういうところを反省してか自分の現象学も一つの(現象学の)学派にすぎない・・・みたいなスタンスでやってますけどね。でも以前と比べてより内容が衒学的になり、また本の発刊ペースも明らかに落ちてる。まあ代表作を書いているからかもしれませんが、もうほとんど興味ないですね。
現象学の深いところにふみこみ、本質学を一般本質学と、超越論的本質学とに分ける、自分は超越論的立場を取る・・・とか言ってますけど、ぼくはそういう専門的な話にはなんの興味もなくて、ただ本質観取に興味があったのと、哲学を平易に解説するところに魅力があったのですが、いまは飲茶とか小川仁志とか、しんめいPとかわかりやすくかつ業績をさっくりまとめてくれるものたくさんありますからね。もういいかな。
現象学は谷徹さんの「これが現象学だ」なんかをいま積んであります。
そういうふうに哲学がかなりスキなので、いまは世界史、日本史、そして哲学・宗教をまとめて体系的に理解を深めていこうと思っています。思想史を学ぶことで、いまはまあ相対主義、ニーチェなんかが強い時代ですけど、その時代に足りていないものは何でどういう思想がこれから必要になってくるのか・・・。そのへんが見当がつきます。
とくに哲学、大事ですね。
学問の女王といわれる、すべての学問の母にあたるのが哲学です。原点・根源を探求する哲学の流れをおさえることは、そのままその時代に生きるすべての人が、どういう思考のフレームワークで動くのかという根本をさぐることになるのです。
今の人達は、タイパとか刹那的なTikTokやショート動画1分ぐらいの流し見、夕食面倒くさかったらUber Eatsで飯食って、レンチンで・・・みたいなのが増えてるからか、小難しい哲学にふれようとする人は少ないのかもしれない。
いや興味関心のある人もいるし、導入しようとする企業もある。でも、哲学の根本は「自分の頭で、自力で思考する」ことではないでしょうか。物事の判断を人任せにせず、根本にまで遡って、自分の力で考え直す・・・。その方法を、ソクラテスープラトンならダイアローグ(対話ー問答法)であったり、あるいはデカルトならば「我思う、ゆえに我あり」で思っている・疑っている自己自身は必ず存在する・・・という確実に存在するコギト(われ)を認識の出発点として置き、そこから演繹する形で思考の出発点にした。
カントなら理性(悟性)の批判を通じて、人間が考えるとはどういうことか、人間の悟性認識の限界を示した。ヘーゲルならば、歴史の発展を、独りの人間の精神の弁証法的発展と見なし、正(テーゼ)と反(アンチテーゼ)の激突から生じる止揚(アウフヘーベン)によって、歴史は進歩展開する、より高みを目指し発展進歩していく。世界や人間の精神は、矛盾や葛藤を乗り越えながら、常に高い次元へと自己を展開していく・・・。それが人間の精神であり、そして歴史なのだ、そういう方論を示した。
こういうそれぞれの時代の要求に沿って、斬新な固有の哲学を提示し、数しれないひとの心に光を灯してきました。
哲学史を学び、各固有の哲学者の接してきた時代背景とそこに提示してきた方法論(思想)。それを学ぶことで、いま現在生きている人たちが、どう生きるのか。難局を打開していくにはどうしたらいいのか、そのブレイクスルーをもたらす「思想」を提示する。自力で提示する・・・。その方向性が開かれていくと思います。
今読んでいるのは、スマホ時代の哲学(谷川嘉浩)という、最近売れている書籍です。ほしいのは飲茶の史上最強の哲学入門(西洋・東洋)、哲学と宗教全史(出口治明)、図説・標準 哲学史(貫成人)などですかね。このへんで全体像を確認して、興味ある哲学者を深堀りしていく・・・。そんな感じでいきたいですね。
語ることは自分が“存在”することと同義。
GW休みとって知らされましたけど、やっぱり絵を描いて、溜まってきた言語をブログやnoteで吐き出す。あるいは読書でのインプットも欠かさない。でスッキリしたら、また新しい気持ちで描いていく・・・。
そう、ぼくにとって言語と向き合うことは、そのまま自分であること(自分が“存在”すること)と同義なのです。
そういえば昔から絵は描いていましたが、話したいことが正確にアサーション(自己主張)できず、長く苦しんでいました。いまとなればその症状も、自分自身の自我と相関するもので、自我の統合からいえば浅いレベルの話だとわかるのですが、それでもぼくの根源に近いところに当たる悩みだったのです。
語ること=Youtubeなどで話すこと、ブログ(note)で文章を書くこと、とても大事。良い文章を書くために、絵をやっているといってもよい。
休みを多めに取る(週二くらい)分、そこのところ(ブログ・Youtube)はしっかりやっていきたいと思います。
今後の発売予定
- ハーレムCG集ー6/26(金)
- 行き雲処総集編ー7月下旬(金)
※予定は変更になる可能性もあるので、あくまで目安として捉えておいてください。
✳️新作発売中
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ぜひよろしくお願いいたします🙂↕️

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